『おらおらでひとりいぐも』を読みました
最近、食についてのブログばかりだったので読書記録を増やしていきたい。
食べることが大好きなので油断すると食べ物のことばかり考えてしまいますね……。心中がブログにも反映されます。
本、読んではいるんですが、読んですぐ書かないと、ずるずると書かないまま時が過ぎていくんですよね……。
若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』、という小説を読みました。少し前に芥川賞をとった小説です。
※ネタバレを含みます
主人公は「桃子さん」。74歳。子供たちは独り立ち、夫とは死別。孤独な生活を送っています。
桃子さんのなかには、東北弁でしゃべる桃子さん(普段は標準語を使う)自身の分身がたくさんいて、時に声をあげます。分身同士で意見が分かれることもあります。
タイトルがまず東北弁ですが、本文もかなりの割合で東北弁です。
「おらおらでひとりいぐも」は、宮沢賢治の「永訣の朝」に出てくる一節だそうですね。(昔読んだのに気づきませんでした……不覚)
桃子さんにとって、夫は人生のすべてでした。
彼もまた、桃子さんのように東北出身。同じ山を見て育ち、東京で出会いました。
夫が亡くなり、桃子さんはとても悲しみます。そのときの心情がやはり東北弁で表現されているのですが、これには衝撃を受けました。
私の話になるのですが、方言、自分ではほとんど出ていないと思っています。(たまにイントネーションがおかしいと指摘されるので実は出てるのかも…?)
でも、独り言を言うときとか、言わなくても心の中で思うとき、意外と方言を使っているような気がするんです。
方言は、心の中にあることを上手に表現するためのひとつの手段なのかもしれない。
年齢的には自分と差があるのですが、おばあちゃん(比較的主人公の年齢層が高め)が主人公の小説、好きだなあと思いました。前回の『ブリット=マリーはここにいた』もそうですね。
自分の行く末と重ね合わせるから感情移入するのか、私がおばあちゃん子だったから主人公に好感を抱くのかはわかりませんが、とにかく好きなのです。
最後のあたり、孫が訪ねてくるシーンで号泣。
決して暗い終わり方ではない、と思います。
「おばあちゃん」にも、「孫」だった時期があったんだな、とそんなことを考えもしました。